「性差(ジェンダー)の日本史」展レポート【前編】


えりこ
千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館にて、2020年10月6日-12月6日の会期で開催された「性差(ジェンダー)の日本史」展に行ってきました。
会場は撮影NGのため、画像を共有することはできませんが、テキストで概要をお伝えできればと思います。
今回は前編です。

古代から近代まで全7章の展示

会場は以下のような章立てで展示されていました。
第1章 古代社会の男女
第2章 中世の政治と男女
第3章 中世の家と宗教
第4章 仕事とくらしのジェンダー ー中世から近世へー
第5章 分離から排除へ ー近世・近代の政治空間とジェンダーの変容ー
第6章 性の売買と社会
第7章 仕事とくらしのジェンダー ー近代から現代へー

古代社会:卑弥呼の時代はジェンダー格差がなかった!?

日本の歴史で女性リーダーといえば邪馬台国を統治した「卑弥呼(ひみこ)」を思い浮かべる方が多いと思います。当時のジェンダー感はどのようなものだったのでしょうか?

 

魏志倭人伝は、倭の政治集会「会同」に男女が参加したと記す。
小国の首長たちが男王をたててうまくいかなかったので、次には卑弥呼を「共立」して王にした。考古学の成果によると、この頃から古墳時代にかけて、男女の首長が各地にいたらしい。
男女の政治参加があたりまえの社会で、男女の首長が卑弥呼を王に選んだ。
6世紀半ばから8世紀半ばの皇位継承は女性が多い。

展示パネルにはこのように書かれていました。

 

邪馬台国時代には、男女の性別役割の観点があまりなく、首長は男女に関わらず適任者が選ばれていたようですね。

古墳時代:前期までは女性の首長が多く存在したものの中期以降は女性の地位が大きく変化

前方後円墳の時代は、女性首長が数多く存在したそうです。実際のところ弥生時代の後期(一世紀後半)から古墳時代前期(四世紀)にかけて、女性首長と考えられる人物は一般的に存在したとのこと。

 

しかし、古墳時代中期になると女性の地位が大きく変化し、前期とは異なり女性首長の割合が急速に減少したようです。

 

韓半島をめぐる軍事的緊張が背景にあり、武器・武具の副葬が重視されようになる。女性首長は軍事的緊張により姿を消していったと考えられる。しかし、中期以降においても中小規模の古墳には女性首長の埋葬は引き続き認められる。

これはジェンダーの歴史において見逃せない変化ですね。

 

軍事的緊張のきっかけにより、男女の分業化が進んだのです。

 

律令期:ジェンダー区分の確立

律令国家が成立すると、衣料生産において重層的な男女の分業化が進んだそうです。

 

律令国家が成立すると、衣料生産において重層的な男女の分業化が進む。高級な絹織物の織成に男性が従事する一方、平織りの絹や麻布も、成人男性が負担する税として国家に納めることが義務づけられていたが、実際に織ったのは、生活のなかで腰機の技術を保持していた女性たちであった。

7世紀末以前の系譜は男女を明確に区分していなかった

とはいえ、7世紀末以前の系譜は、のちの戸籍のように男女を明確に区分する父系系譜の異なる独特の様式で書かれていたそうです。

 

「娶いて生む子/児(みあいてうむこ)」という定形句で、父と母を相称的に記載する。天皇の系譜も男女の判別がない「王」号で記されていた。
その基盤には、父方母方双方の一族と関係を重視する、当時の親族関係のしくみがあった。

展示パネルに

「社会の全成員を男と女に二分し、異なる役割を定める制度は、歴史の所産にほかならない。」

と書かれてあったのが印象的でした。

 

今回はここまで

次回は中編として、「中世」について学んだことをシェアしたいと思います。お楽しみに!
中編はこちら

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