「性差(ジェンダー)の日本史」展レポート【中編】


えりこ
千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館にて、2020年10月6日-12月6日の会期で開催された「性差(ジェンダー)の日本史」展に行ってきました。
会場は撮影NGのため、画像を共有することはできませんが、テキストで概要をお伝えできればと思います。
今回は中編です。 前編はこちら



中世:政治空間と女性

平安時代以降、朝廷の政務の場は男性のものとなりました。

行事の際には多くの女房(上級女性官人)が随行したものの、女房たちの居場所は「御簾(みす)の内側」であり、女性は政治空間において「見えない」存在だったそうです。

 

律令官僚制は女性を政治・行政から排除するものであった。
女性官人は「後宮十二司(こうきゅうじゅうにし)」と呼ばれる内廷官司に編成され、官位を得て朝廷で働く道は残されたものの、平安時代の10世紀中頃までに後宮十二司は解体されて、天皇に近侍する上級女性官人(女房)と、それぞれ特定の業務にあたる下級女性官人(女官)とに再編された。
上級女性官人は、官位は有しているものの、天皇との「直接的人格的主従関係」を色濃く帯びた存在だったそうです。私は「お付き人」と解釈しました。

下級女性官人は、殿司(でんし/灯火の管理など)、掃司(そうし/格子の上げ下げなど)、闈司(いし/取り次ぎなど)、采女(うねめ/天皇食膳の運搬)、女嬬(雑用)といった奉仕に従事していたそうです。私は「お手伝いさん」と解釈しました。

要は、女性も官位はあるものの直接的な政治・行政からは排除されたということです。



貴族社会における「女の幸せ」

一条天皇の皇后藤原定子(ふじわらのていし)に仕えた女房清少納言が、摂関時代の貴族社会における「女の幸せ」観を述べた文章が残っているので、その現代文の解説を紹介します。



官位の高さが何にも勝る価値基準となるのは宮廷社会の基本的通年であるとして、男は官位があがっていくにつれて社会的に重んじられもするのに対して、女が高い官職・位階に就けるのは典侍や三位に叙される天皇の乳母くらいのもの。したがって官位を得ることなど目指さず、受領(諸国の長官、莫大な蓄財が可能だった)の奥方になって夫と任国に赴き、裕福に暮らすことが並の家柄の女にとって最上の幸せとされているが、それより玉の輿に乗って生んだ姫君が皇后になるのが最高というべきだ。
いかがでしょうか?要は

女は仕事で上を目指すのではなく、高収入の男と結婚して夫の赴任先に帯同し、将来的に娘が玉の輿の乗ってくれたら最高だよね

と言っているのです。

ひと昔前、バブル時代に女性が結婚相手の条件として、高収入・高学歴・高身長の「三高」を求め、夫の海外赴任に帯同して駐在妻になることが「女の幸せ」と言われていた頃となんら変わらないように思います。

ジェンダー格差是正の活動をしている私にとって、このジェンダー感が1000年以上続いていたのかと思うと絶句です。



中世の家と宗教

次に、「中世の家と宗教」について見ていきましょう。
律令官僚制が確立してからは、身分や階層を越えて、父系的な「家」が形成されていきました。



中世には、身分や階層を越えて、父系的な「家」が形成された。夫婦の関係や妻の役割が重視される中で、夫を亡くした後家はその菩提を弔いつつ、子どもたちを指揮する権限を持ち、家の代表者として社会的に認められる。他方、次第に制限されながらも、中世の女性には財産の所有・管理が認められていた。

 

この頃は、女性にも財産権がありましたが、鎌倉後期には「所領の分散化を防ぐ」といった目的で、嫡子単独相続が広がるなど、武家における女性の地位は次第に変化していったそうです。



仏教会にみる女性差別観の受容と深化

仏教には元来、

女性差別的要素が含まれていたそうです。

中世の旧仏教諸宗、及び新たにひらかれた諸宗においても、女性は五障三従(ごしょうさんじゅう)の罪を負うという「女人罪業観(にょにんざいごうかん)」が広く共有されていった。
仏教経典のひとつ「法華経」(提婆達多品(だいばだったぼん))にみえる龍女成仏の物語には、女性は梵天王(梵天王)、帝釈(たいしゃく)、魔王(まおう)、転輪聖王(てんりんじょうおう)、仏身の5つにはなれない「五障」の身であるとの説に対し、八歳の龍王の娘がたちまち「変成男子(へんじょうなんし)」して、成仏したとある。

 

ひどい女性差別でびっくりしますが、救いは曹洞宗の祖師道元のように、きっぱりと男女の罪業の差異、女人結界(女性が聖域に入ることを禁じる)を批判した宗教者もいたことです。

しかしながら、後の時代になると、いずれの教団も伝道に際し、

女性を救われがたい劣った存在

とみなす差別的思想を背景に、変成男子説や女人往生・成仏論(女性は往生成仏できないという考え)を盛んに持ち出し、女人救済を唱えたそうです。

 

平安時代になると、社会が男性中心となり、家父長的な家が貴族階層で成立するにともない女性差別観が立ち現れ、中世にかけて、女性は男性より罪深いという女人罪業感が広まった。

 

また、中世後期には、

出産や月経によって流れる血が、女性の堕地獄の原因

と考えられるようになり、戦国期を経て江戸時代には、血の池地獄からの救済を眼目とする「血盆経(けつぼんきょう)」に対する信仰が広まったそうです。
生命を誕生させるために機能している「月経」がこんな邪悪な扱いをされるなんて・・・

もしタイムマシンがあれば、医師や専門家にこの時代に行ってもらって、「生理にしくみ」についてプレゼンしていただきたいものです。

こちらは絵巻「病草紙」で有名な肥満の女(部分)です。
高利貸しで成功を収め富者となった「女」が美食を貪ったために、支えがなければ歩けないほどの肥満(=病気)となっている様が描かれています。



そばに授乳する健康的な身体の「母」の姿を対照的に描くことによって、「女」に割り振られた社会的役割の逸脱を暗示する。

 

仏教における女性差別は、女性の身体に向けられるまなざしや描かれ方にも影響を及ぼしています。



女性の身体は、その仕草、髪型や乳房の形状、着衣の有無や種類、着こなしなどによって表現されてきた。女性表象は、一面において彼女たちの労働を含む日々の暮らしの実態を伝える。だが他方で、女性を劣ったものとみなし、恐れる男性の意識によって作りだされ、差別を強化した側面があったことは見逃せない。

 


ジェンダー区分について、前編の「古代」ではあからさまな違いは見られなかったものの、今回の「中世」では、政治や宗教による女性差別によって確立されていく様子がわかりました。

興味深いのは女性特有の「月経」を女性差別の標的にしている点です。「出産や月経によって流れる血が、女性の堕地獄の原因と考えられるようになった」とありましたが、もしかしたら無知ではなく、確信犯だったかもしれません。もはや今となってはどちらでも良いですが、問題は1000年以上の時を経て、いまだに日本では政治・経済におけるジェンダー格差が存在しているということです。
この歴史を繰り返さないためにも、やはり今こそ偏見を無くし、ジェンダー格差の無い社会の実現が必要だと感じました。



今回はここまで

次回は後編として、「近世・近代」について学んだことをシェアしたいと思います。お楽しみに!

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