「性差(ジェンダー)…

えりこ
あけましておめでとうございます。今年もジェンダーギャップ解消に向けた活動に邁進します。本年もよろしくお願いいたします!
千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館にて、2020年10月6日-12月6日の会期で開催された「性差(ジェンダー)の日本史」展レポート。
前編中編に続き、今回はいよいよラストの後編です!「近世・近代」について学んだことをシェアします。

職業のジェンダー

近世には、商家や武家屋敷に奉公するにしても、最低限読み書きの能力を求められることが多かったそうです。江戸後期には、男女問わず手習い塾(寺子屋)に通う子どもの多い地域もありました。
という事で、教育は比較的ジェンダー平等だったようですが、職業はどうでしょうか?
近世後期は中世に引き続き、多種多様な「職人」の姿を描くという趣向が好まれたものの、中世とは異なり、「職人」は男性を指すという傾向が強まったそうです。
103種の「職人」を描いた図鑑「近世職人尽絵師(きんせいしょくにんづくしえことば)」はほとんどが男性で、女性は遊女、夜鷹、町芸者、岡場所の売女など、性的な要素の強い職種と、巫女、夫婦者(豆腐屋と鰻屋)のみで、手工業に携わる女性は皆無だそうです。
上記で「夜鷹(よたか)」という職業名が出ましたが、これは遊郭などで稼げなくなり、仕方なしに路上や川べりで客を捕まえてそば一杯の値段で身売りしていた遊女のことです。これは果たして職業なんでしょうか?おそらく夜鷹になりたくてなった人などいないはずです。
それを職人リストのような所に並べられるなんて、当人たちにとってはこの上ない屈辱だったろうと思います。(本当に近世職人尽絵師に夜鷹が紹介されているかは定かではありません)


話を戻します。
近世社会では、同じ職業に携わる者の集団が、身分集団として公的・政治的役割を負い、それぞれの集団は、通常、男性家長を中心とする小経営の家を単位として成り立っていたそうです。職人の集団もそのひとつであり、“職人といえば男性”という通念は、このような社会のなかで生まれたようです。


女髪結

ここで「女髪結」の話が興味深かったのでご紹介します。
女性がみんな髪を結うようになったのは、江戸時代に入ってからだそうです。それまでは貴族や武士の間でも垂髪(すべらかし)が一般的でした。
長い黒髪を垂らした「垂髪(すべからし)」 出典:ポーラ文化研究所

女性の髪型が垂髪から結髪に変わるにつれ、女髪結が登場するようになりました。多くの女髪結は、櫛などを布に包んで持ち歩き顧客を訪ねて営業したそうです。

しかし、天保改革により、「女は自分で自分の髪を結うべきだ」という理屈から、女髪結が取締りの対象となりました。
一体なぜ取り締まる必要性があったのでしょうか?
調べてみたらこちらに詳しい記事がありました。以下、引用します。

女髪結を禁止は、寛政七年(1795年)10月、老中松平定信が主導する幕府の寛政の改革にて、以下の理由により実施されました。

「以前は女髪結はいなかったし、金を出して髪を結ってもらう女もいなかった。ところが近頃、女髪結があちこちに現れ、遊女や歌舞伎の女形風に髪を結い立て、衣服も華美なものを着て風俗を乱している。とんでもないことだし、そんな娘を持つ両親はなんと心得ているのか。女は万事、分相応の身だしなみをすべきだ。近年は身分軽き者の妻や娘たちまでもが髪を自分で結わないというではないか。そこで女髪結は、今後は一切禁止する。それを生業なりわいとする娘たちは職業を変え、仕立て屋や洗濯などをして生計を立てるように」

質素倹約を改革の主眼としていた幕府は、近年の庶民女性の風俗は華美に流れており、その責任の一端は女髪結にあると判断したのだ。なお、この文面から、当時の女髪結はすでに女性中心の職業だったことがわかる。

改革を主導したこの老中、まるで、「風紀が乱れるからツーブロック禁止!パーマ禁止!茶髪禁止!学生たるものは云々!」とか言ってブラック校則を指導する教師のようですねw

しかし、厳しい取り締まりを繰り返しても一向に女髪結は姿を消さなかったそうです。
ではその後、どうなったのでしょうか?

さて、このような摘発をおこなったにもかかわらず、一向に女髪結は姿を消さなかった。江戸の町奉行所は、嘉永六年(1853)五月三日、町の名主たちに「女髪結之儀ニ付御教諭」という通達を発した。そこには次のようなことが記されている。

「かつて女髪結は厳禁されていたが、密かに調べたところ千四百人あまりもいることがわかった。そのままにしておけないのですぐに捕まえるべきだが、このたびは特別な計らいで吟味の沙汰にはおよばない。
中略
いかがであろうか。天保の改革の十年前と比べて、規制が驚くほど甘くなっている。それはそうだろう。だって千四百人も女髪結がいるのだから。つまり幕府の禁令も美しい髪型をして町を練り歩きたいという女性の願いにはわなかったのである。

女髪結いの摘発はいたちごっこだったようですね。しかし、よく女髪結が1400人もいることを調べ上げましたよね。すごい捜査力!あっぱれ!そして暇人w

「美しい髪型をしたい」という欲求は、次第に文化として定着しました。一度文化が定着すれば、いくら国が取り締まろうにもそう容易く根絶やしにできるものではありません。「欲求」というエネルギーは強大です。


さて話が変わりますが、本展示会では、「性の売買」についても詳しく紹介されていました。ジェンダーを考えるにあたり、非常に重要なキーワードです。
ぜひご紹介したいところですが、ものすごく長くなりそうなので別に機会に改めます。

明治国家とジェンダー

江戸時代、江戸城や大名屋敷など政治空間では、「表と奥」、「公と私」という区分のもとで、女性が奥に閉じ込められた時代と考えられてきました。ところが近年の研究によって、正妻や奥女中が果たす政治的権能の実態が解明されてきています。
しかし、明治期に入り、女性たちが発揮してきた政治的権能は否定され、女性は政治空間から排除されました。
明治国家は、政府と天皇の「家」の分離を原則としていた。これによって、女性は政治空間から排除されてゆくことになった。皇位継承については、当初は政府内にも女帝を容認する意見もあったが、法務官僚井上毅がこれに強く反対した。こうして、1889(明治22)年に制定された皇室典範と大日本帝国憲法は、男系・男性による皇位継承を明記した。この時期に整備された選挙制度や地方制度においても、女性の政治参加は否定されていた。
これを読んで「腹立たしい差別だ」と思う方がいるかもしれませんが、個人的には時代背景を考えると自然な流れのように思います。 約260年という長きに渡る天下泰平の世をもたらした江戸時代。これにより誰もが平和ボケし、幕府は弱体化の一途をたどりました。
そこで、迫りくる外国の脅威に危機を感じた一部の志士たちが立ち上がり、封建社会をぶっ潰して近代化改革を実現したのが明治維新です。

この一連の流れは女性の陰なる支えがあったにせよ、やはり功労者は男性の志士たちだと思わざるを得ません。

彼らは死にものぐるいで新しい国をつくりましたし、「自分たちがつくり上げた」という自負もあったと思います。

そこに「ジェンダー平等」という思想を取り込む余裕なんて全く無かったと思うのです。

私は良し悪しではなく、それが歴史である以上、感情に左右されず、時代を作ってくれた人々に感謝の気持ちを持つことが大事だと思っています。

ともかく、女性は政治空間から排除されました。そして今の時代につながる「男性主導の社会」が生まれました

近代の政治空間とジェンダー

それまでの近世において、「性差」は、政治空間や「家」の継承・運営に関わる女性を排除する絶対的な区分ではありませんでした。
男系であれば女性は天皇位につくことができました。
「家」の継承や運営をめぐって女性たちは「奥」での役割を担いました。
夫婦は別姓で、妻は生家の氏を名乗りました。

法律婚によって妻に夫の氏を名乗ることを決めたのは明治民法の規定が初めてです

明治における新しい政治システムは、性差に絶対的な意味をもたせ、女性を排除しました。

政治参加を男性に限定した「衆議院議員選挙法」(1889年明治22年)、女性の加入・政談集会発起の禁止を明記した翌年の「集会及政社法」、これを継承した「治安警察法」(1900年明治33年)は明確な「女性」の排除規定を備えました。

6世紀末に即位した推古天皇をはじめ、飛鳥、奈良、江戸時代において、計10代8人の女性天皇が誕生しましたが、明治時代に制定された旧皇室典範にて皇位継承者を「男系男子」に限ると定め、現行の皇室典範にも同様の規定が引き継がれました。

さらに明治民法の施行(1898明治31年)は女性を法の制度によって公的政治空間の対象外とし、労働をめぐっては性別役割という構造的な不平等のもとに置きました。

高等文官試験や代言人試験など、試験制度によるキャリア獲得競争において女性は参入資格を持ちませんでした。(女性初の弁護士誕生は昭和期)

近代の職業とジェンダー

近代国家は教育資格と職業をつなぐ制度設計から女性を排除しました。

新たな教育制度は職業獲得への期待を高めましたが、女子の高等女学校は男子中学校と同等の中等教育にとどまり、帝国大学を始め、多くの高等教育は原則として女性に解放されませんでした。
その一方で、現実社会の農業労働の場では、女性や子どもも重要な稼ぎ手でした。

大正期以降は都市部で「職業婦人」として電話交換手や女子計算員など技術職が注目されましたが、女性の雇用増加はジェンダーによる職務の固定のもとにありました。

また、明治期には官吏の試験制度が整備されましたが、受験資格は男性に限られました。とはいえ、戦前の官庁にも「非正規雇用の位置づけ」としての女性はいたそうです。特に逓信省は電話交換手や、郵便貯金の計算事務に多くの女性を雇用しました。一部は下級の官吏である判任官に登用されましたが、男性と比べて昇進には限界がありました。


工場労働とジェンダー

工場法施行後、大手工場ではある程度は福利施設が普及し、女工の待遇は改善へと向かったようです。従業員への日用品廉価販売も行われ、その中には月経帯(生理用品)もありました。

女工にとっては格安購入のメリットがある一方で、工場側にとっては、月経時の女工の労働能率を維持するという課題の解決策であった。これを工場側の提供した福利増進の一環とみなすのか、はたまた身体管理の強化とみなすのかについては、両面の評価がありうるだろう。
上記引用は、展示会にあった説明文ですが、少し含みがあり、個人的には違和感を覚えました。

企業として雇用者の労働能率の維持または向上を意識するのは当然のことだと思います。生理用品の廉価販売が身体管理の強化の意図を含むのは経営戦略であり、何ら問題は無いのではないかと個人的には思います。

コンピューターとジェンダー

第二次世界大戦の前後、軍事関係業務のため導入されたコンピューター(計算手)の多くは女性だったそうです。
彼女たちのほとんどは、専門的な教育を受けていませんでしたが、複雑な計算労働が単純化され、多くの女性が働く職場となっていきました。

戦後になると、オペレーターやキーパンチャーが女性の仕事の花形となっていく一方、プログラマーやシステムエンジニアは男性的職業とみなされるようになったそうです。

1969(昭和44)年に新設された情報処理技術者認定試験は男女問わず受験することができました。しかし、24時間稼働するコンピューターに合わせて働く労働環境と家事・育児は女性にというジェンダーバイアスが相俟って男性性が強まったそうです。

私自身、10年近くシステムエンジニアとして働いていた過去がありますが、思い返すと確かに圧倒的に男性が多かったです。
当時は子育てしていなかったので特に意識しませんでしたが、妊娠をきっかけにこの職から離れたのは、育児の両立が難しいと判断したためです。キャリアチェンジをしたことで今の自分につながっているので後悔はしていませんが、今は当時に比べて格段に環境が整っていますし、システムエンジニアやプログラマーこそ在宅ワークがしやすく、性別に関わらず仕事と育児を両立させられる職種ではないでしょうか。
セキュリティがどうとか勤務時間がどうとか反論もあるでしょうが、すべては企業の覚悟とやり方次第だと思います。

まとめ

さて、今回は思いのほか長くなってしまいました。

やはり現代に近づくと思いが強くなり、書きたいことが増えるものですね。

これまで見てきたように、現在の日本におけるジェンダーは明治時代に確立したと言っても過言ではありません。

明治は初めて日本人が日本人としての自覚をもち、諸外国と肩を並べる国づくりを目指した時代です。

日清・日露戦争では、せっかく自分たちの手で作り上げたばかりの新日本を属国にする訳にはいかないという意地と意気込みがあったからこそ、国民が力を合わせて必死に戦って勝利を掴むことができました。

当時の戦争は、今のようにボタン1つで相手を攻撃できるような技術は無く、すべて肉弾戦です。
男性でなければ戦えませんでした。一方で女性は家を守りました。
こういった性別役割分担が功を奏したからこそ日本は繁栄し、今のわたしたちがあると思うのです。

しかし時代は変わり、現代の日本のおいては旧来の性別役割分担が不要になりました。

性別に関わらず誰もが自分のやりたいことにチャレンジできる社会が到来
しています。

私たちの「あたりまえ」は時代と共に変化します。
人間とはどんどん変化する生き物です。

その変化に対応できない人たちは、歴史が何度も繰り返しているように淘汰されるでしょう。

昔は性別役割分担が必要だった。しかし今は不要になった。ただそれだけの話です。

「引き継ぐべきものと捨てるべきもの」。視野を広げ、時代の変化を敏感に察知して、取捨選択をする。

いつの時代も、この価値観が生き残るためのキーワードだと思います。

ありがとうございました!

「性差(ジェンダー)…

えりこ
千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館にて、2020年10月6日-12月6日の会期で開催された「性差(ジェンダー)の日本史」展に行ってきました。
会場は撮影NGのため、画像を共有することはできませんが、テキストで概要をお伝えできればと思います。
今回は中編です。 前編はこちら



中世:政治空間と女性

平安時代以降、朝廷の政務の場は男性のものとなりました。

行事の際には多くの女房(上級女性官人)が随行したものの、女房たちの居場所は「御簾(みす)の内側」であり、女性は政治空間において「見えない」存在だったそうです。

 

律令官僚制は女性を政治・行政から排除するものであった。
女性官人は「後宮十二司(こうきゅうじゅうにし)」と呼ばれる内廷官司に編成され、官位を得て朝廷で働く道は残されたものの、平安時代の10世紀中頃までに後宮十二司は解体されて、天皇に近侍する上級女性官人(女房)と、それぞれ特定の業務にあたる下級女性官人(女官)とに再編された。
上級女性官人は、官位は有しているものの、天皇との「直接的人格的主従関係」を色濃く帯びた存在だったそうです。私は「お付き人」と解釈しました。

下級女性官人は、殿司(でんし/灯火の管理など)、掃司(そうし/格子の上げ下げなど)、闈司(いし/取り次ぎなど)、采女(うねめ/天皇食膳の運搬)、女嬬(雑用)といった奉仕に従事していたそうです。私は「お手伝いさん」と解釈しました。

要は、女性も官位はあるものの直接的な政治・行政からは排除されたということです。



貴族社会における「女の幸せ」

一条天皇の皇后藤原定子(ふじわらのていし)に仕えた女房清少納言が、摂関時代の貴族社会における「女の幸せ」観を述べた文章が残っているので、その現代文の解説を紹介します。



官位の高さが何にも勝る価値基準となるのは宮廷社会の基本的通年であるとして、男は官位があがっていくにつれて社会的に重んじられもするのに対して、女が高い官職・位階に就けるのは典侍や三位に叙される天皇の乳母くらいのもの。したがって官位を得ることなど目指さず、受領(諸国の長官、莫大な蓄財が可能だった)の奥方になって夫と任国に赴き、裕福に暮らすことが並の家柄の女にとって最上の幸せとされているが、それより玉の輿に乗って生んだ姫君が皇后になるのが最高というべきだ。
いかがでしょうか?要は

女は仕事で上を目指すのではなく、高収入の男と結婚して夫の赴任先に帯同し、将来的に娘が玉の輿の乗ってくれたら最高だよね

と言っているのです。

ひと昔前、バブル時代に女性が結婚相手の条件として、高収入・高学歴・高身長の「三高」を求め、夫の海外赴任に帯同して駐在妻になることが「女の幸せ」と言われていた頃となんら変わらないように思います。

ジェンダー格差是正の活動をしている私にとって、このジェンダー感が1000年以上続いていたのかと思うと絶句です。



中世の家と宗教

次に、「中世の家と宗教」について見ていきましょう。
律令官僚制が確立してからは、身分や階層を越えて、父系的な「家」が形成されていきました。



中世には、身分や階層を越えて、父系的な「家」が形成された。夫婦の関係や妻の役割が重視される中で、夫を亡くした後家はその菩提を弔いつつ、子どもたちを指揮する権限を持ち、家の代表者として社会的に認められる。他方、次第に制限されながらも、中世の女性には財産の所有・管理が認められていた。

 

この頃は、女性にも財産権がありましたが、鎌倉後期には「所領の分散化を防ぐ」といった目的で、嫡子単独相続が広がるなど、武家における女性の地位は次第に変化していったそうです。



仏教会にみる女性差別観の受容と深化

仏教には元来、

女性差別的要素が含まれていたそうです。

中世の旧仏教諸宗、及び新たにひらかれた諸宗においても、女性は五障三従(ごしょうさんじゅう)の罪を負うという「女人罪業観(にょにんざいごうかん)」が広く共有されていった。
仏教経典のひとつ「法華経」(提婆達多品(だいばだったぼん))にみえる龍女成仏の物語には、女性は梵天王(梵天王)、帝釈(たいしゃく)、魔王(まおう)、転輪聖王(てんりんじょうおう)、仏身の5つにはなれない「五障」の身であるとの説に対し、八歳の龍王の娘がたちまち「変成男子(へんじょうなんし)」して、成仏したとある。

 

ひどい女性差別でびっくりしますが、救いは曹洞宗の祖師道元のように、きっぱりと男女の罪業の差異、女人結界(女性が聖域に入ることを禁じる)を批判した宗教者もいたことです。

しかしながら、後の時代になると、いずれの教団も伝道に際し、

女性を救われがたい劣った存在

とみなす差別的思想を背景に、変成男子説や女人往生・成仏論(女性は往生成仏できないという考え)を盛んに持ち出し、女人救済を唱えたそうです。

 

平安時代になると、社会が男性中心となり、家父長的な家が貴族階層で成立するにともない女性差別観が立ち現れ、中世にかけて、女性は男性より罪深いという女人罪業感が広まった。

 

また、中世後期には、

出産や月経によって流れる血が、女性の堕地獄の原因

と考えられるようになり、戦国期を経て江戸時代には、血の池地獄からの救済を眼目とする「血盆経(けつぼんきょう)」に対する信仰が広まったそうです。
生命を誕生させるために機能している「月経」がこんな邪悪な扱いをされるなんて・・・

もしタイムマシンがあれば、医師や専門家にこの時代に行ってもらって、「生理にしくみ」についてプレゼンしていただきたいものです。

こちらは絵巻「病草紙」で有名な肥満の女(部分)です。
高利貸しで成功を収め富者となった「女」が美食を貪ったために、支えがなければ歩けないほどの肥満(=病気)となっている様が描かれています。



そばに授乳する健康的な身体の「母」の姿を対照的に描くことによって、「女」に割り振られた社会的役割の逸脱を暗示する。

 

仏教における女性差別は、女性の身体に向けられるまなざしや描かれ方にも影響を及ぼしています。



女性の身体は、その仕草、髪型や乳房の形状、着衣の有無や種類、着こなしなどによって表現されてきた。女性表象は、一面において彼女たちの労働を含む日々の暮らしの実態を伝える。だが他方で、女性を劣ったものとみなし、恐れる男性の意識によって作りだされ、差別を強化した側面があったことは見逃せない。

 


ジェンダー区分について、前編の「古代」ではあからさまな違いは見られなかったものの、今回の「中世」では、政治や宗教による女性差別によって確立されていく様子がわかりました。

興味深いのは女性特有の「月経」を女性差別の標的にしている点です。「出産や月経によって流れる血が、女性の堕地獄の原因と考えられるようになった」とありましたが、もしかしたら無知ではなく、確信犯だったかもしれません。もはや今となってはどちらでも良いですが、問題は1000年以上の時を経て、いまだに日本では政治・経済におけるジェンダー格差が存在しているということです。
この歴史を繰り返さないためにも、やはり今こそ偏見を無くし、ジェンダー格差の無い社会の実現が必要だと感じました。



今回はここまで

次回は後編として、「近世・近代」について学んだことをシェアしたいと思います。お楽しみに!

「性差(ジェンダー)…

えりこ
千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館にて、2020年10月6日-12月6日の会期で開催された「性差(ジェンダー)の日本史」展に行ってきました。
会場は撮影NGのため、画像を共有することはできませんが、テキストで概要をお伝えできればと思います。
今回は前編です。

古代から近代まで全7章の展示

会場は以下のような章立てで展示されていました。
第1章 古代社会の男女
第2章 中世の政治と男女
第3章 中世の家と宗教
第4章 仕事とくらしのジェンダー ー中世から近世へー
第5章 分離から排除へ ー近世・近代の政治空間とジェンダーの変容ー
第6章 性の売買と社会
第7章 仕事とくらしのジェンダー ー近代から現代へー

古代社会:卑弥呼の時代はジェンダー格差がなかった!?

日本の歴史で女性リーダーといえば邪馬台国を統治した「卑弥呼(ひみこ)」を思い浮かべる方が多いと思います。当時のジェンダー感はどのようなものだったのでしょうか?

 

魏志倭人伝は、倭の政治集会「会同」に男女が参加したと記す。
小国の首長たちが男王をたててうまくいかなかったので、次には卑弥呼を「共立」して王にした。考古学の成果によると、この頃から古墳時代にかけて、男女の首長が各地にいたらしい。
男女の政治参加があたりまえの社会で、男女の首長が卑弥呼を王に選んだ。
6世紀半ばから8世紀半ばの皇位継承は女性が多い。

展示パネルにはこのように書かれていました。

 

邪馬台国時代には、男女の性別役割の観点があまりなく、首長は男女に関わらず適任者が選ばれていたようですね。

古墳時代:前期までは女性の首長が多く存在したものの中期以降は女性の地位が大きく変化

前方後円墳の時代は、女性首長が数多く存在したそうです。実際のところ弥生時代の後期(一世紀後半)から古墳時代前期(四世紀)にかけて、女性首長と考えられる人物は一般的に存在したとのこと。

 

しかし、古墳時代中期になると女性の地位が大きく変化し、前期とは異なり女性首長の割合が急速に減少したようです。

 

韓半島をめぐる軍事的緊張が背景にあり、武器・武具の副葬が重視されようになる。女性首長は軍事的緊張により姿を消していったと考えられる。しかし、中期以降においても中小規模の古墳には女性首長の埋葬は引き続き認められる。

これはジェンダーの歴史において見逃せない変化ですね。

 

軍事的緊張のきっかけにより、男女の分業化が進んだのです。

 

律令期:ジェンダー区分の確立

律令国家が成立すると、衣料生産において重層的な男女の分業化が進んだそうです。

 

律令国家が成立すると、衣料生産において重層的な男女の分業化が進む。高級な絹織物の織成に男性が従事する一方、平織りの絹や麻布も、成人男性が負担する税として国家に納めることが義務づけられていたが、実際に織ったのは、生活のなかで腰機の技術を保持していた女性たちであった。

7世紀末以前の系譜は男女を明確に区分していなかった

とはいえ、7世紀末以前の系譜は、のちの戸籍のように男女を明確に区分する父系系譜の異なる独特の様式で書かれていたそうです。

 

「娶いて生む子/児(みあいてうむこ)」という定形句で、父と母を相称的に記載する。天皇の系譜も男女の判別がない「王」号で記されていた。
その基盤には、父方母方双方の一族と関係を重視する、当時の親族関係のしくみがあった。

展示パネルに

「社会の全成員を男と女に二分し、異なる役割を定める制度は、歴史の所産にほかならない。」

と書かれてあったのが印象的でした。

 

今回はここまで

次回は中編として、「中世」について学んだことをシェアしたいと思います。お楽しみに!
中編はこちら